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カリマコスの作品

どのような人生を送っていたのか大変興味があります。

家系と初期の人生
カリマコスはギリシアの植民地キュレネ(現リビア)の高貴なギリシア人家庭に生まれ育った。両親はMesatme(またはMesatma)家とバットス家の出だった。バットス家という名前は最初のキュレネ王バットス1世(en:Battus I of Cyrene)の末裔を思わせるが、カリマコスは8世代にわたってキレナイカ(en:Cyrenaica)を支配し、アフリカにおける最初のギリシア人王家でもある、リビアのギリシア人王朝バットス朝の末裔だと主張していた。カリマコスという名前は祖父(老カリマコス)の名を貰ったもので、その祖父はキュレネの将軍で市民から高い尊敬を受けていた。

カリマコスはシラクサ出身のユーフラテスというギリシア人の娘と結婚した。子供がいたかどうかはわかっていない。またカリマコスにはMegatimeという姉妹もいたが、彼女についてわかっていることは、StasenorusもしくはStasenorというキュレネ人と結婚し、カリマコス(若カリマコス)という子供を生んだことくらいで、若カリマコスも詩人になり、『島』という詩を書いた。

カリマコスはそれからアテナイで教育を受け、北アフリカに戻ると、アレクサンドリアに住み着いた。


作品
カリマコスはエリートかつ博識で、「すべての陳腐なものを忌み嫌う」と主張した。カリマコスで最もよく知られているのは、短い詩とエピグラム(警句、en:Epigram)である。ヘレニズム時代、ギリシア語で書かれた詩の主な傾向は、ホメロスを手本とした叙事詩を否定することだった。その代わりにカリマコスは、ホメロスの通ったすり減らされた轍を行くのではなく、「人跡未踏の野を馬車で駆る」よう詩人たちに訴えた。カリマコスが理想としたものは、短いが、構成も言葉選びも慎重を期した詩の形式だった。カリマコスの『アイティア(縁起談)』の序文で、カリマコスは、アポローンが自分のところを訪れ、「群れを肥やせ、だがムーサはほっそりしたままに」と戒めたと書いた。念入りに作られた隠喩に富んだ要素の選択の明確な表示である。「μεγά βιβλίον μεγά κακόν(mega biblion, mega kakon、大きい本は大きい悪)」は、カリマコスが捨てるべきだと提案しているスタイルを作った長大な流行遅れの詩を攻撃する詩の一つだった。カリマコスは他に、パトロンである王族を讃える詩など、多岐にわたる種類の詩を書いた。さらに散文や批評も書いた。カリマコスの最も有名な散文作品は『ピナケス』で、アレクサンドリア図書館所蔵の本の作者たちの全120巻から成る図書目録通覧だった。

叙事詩に敵対するカリマコスの強硬な姿勢は、叙事詩が好きで『アルゴナウティカ』を書いた若弟子・ロードスのアポローニオスとの長く辛辣な確執を招き、30年にわたってトゲのある批評・侮辱・ad hominemの応酬が続けられた。初期のアレクサンドリア図書館長をリストアップしたオクシリンコス・パピルスの断片からわかっていることは、プトレマイオス2世は一度もカリマコスをその職に任用したことがない代わりに、弟子だったロードスのアポローニオスは任用したことである。ピーター・グリーン(en:Peter Green (historian))など一部の歴史家たちは、そのことも二人の詩人の長きにわたる確執のせいではないかと推測している。

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2008年03月23日 22:16に投稿されたエントリーのページです。

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